地域貢献(密着)活動文化的活動について

よろず相談所《たんよう》の文化的活動についてご紹介いたします。

  • 文化的活動
  • 2009/9/12

「生野三画伯」について

「生野三画伯」について(朝来市の文化)

姫路市の北方の兵庫県中央部に位置する朝来市生野町は、昔から長い歴史と伝統を有する鉱山町として生野銀山(昭和48年閉山)が栄えました。その生野町出身の、明治末期に活躍した近代洋画を代表する白瀧幾之助・和田三造・青山熊治が「生野三画伯」(生野三巨匠)と言われています。

▉ 白瀧幾之助(1873年~1960年)

白瀧幾之助

 生野小学校卒業後、姫路の中学校で学んだとも言われる白瀧幾之助は、はじめ上京して工手学校への入学を目指しましたが、洋画家・山本芳翠との出会いによって洋画を志し、1896(明治29)年に新設された東京美術学校西洋画科に入学、黒田清輝らの白馬会に所属しました。

  この頃制作された「稽古」は当時の外交派の様子を示す佳品として知られています。卒業後、自らも出品していたセントルイス万博に合わせて渡米し、その後、イギリスを経てフランスに渡りラファエル・コランに学びました。 帰国後は文展、帝展を舞台に活躍し、水彩画においてもその画才を発揮し多くの作品を残しています。

 白瀧の画風にはその生涯を通して大きな変化は見られませんが、平明でオーソドックスな風景や肖像画に画家としての生き方が表れています。 戦後、白瀧は日展を発表の場としましたが、画壇での活動には興味を示さず、淡々とした作画生活を送りました。

当金庫所蔵の白滝幾之助作品の一部

その1 その2 その3

▉ 和田三造(1883年~1967年)

和田三造

 兵庫県朝来市生野町に生まれました。父文碩(ぶんせき)は医師で書画骨董に明るい人であったといわれています。また、兄の正造は20歳で世を去りましたが、東京美術学校西洋画科に学びました。和田が画家を目指したのもこうした周囲の環境が作用したと思われます。

 1896(明治29)年、和田家は仕事の関係で福岡に移りました。和田は修猷館(しゅうゆうかん)中学に通いますが、約1年で退学し上京。同郷の白瀧幾之助の世話がきっかけで黒田清輝の門下となり湯浅一郎らの指導をうけ、1901(明治34)年には東京美術学校西洋画科に入学しました。同級には青木繁がいました。美術学校卒業後の和田の活躍はめざましく、1905(明治38)年、白馬会展で「牧場の晩帰」が白馬賞、2年後の第1回文展で代表作とされる「南風」が最高の二等賞、続いて第2回展でも二等賞をうけ無鑑査となりました。

 1909(明治42)年には文部省より美術留学生として渡欧し、油彩画と工芸図案を研究しています。帰国後は文展の審査員などを務め、帝展、日展に出品を続け、日本画、染色、図案、色彩研究、映画の色彩デザイン担当など幅広い分野で活動を展開しました。特に染色関係ではインドおよびインドシナに興味を示し、晩年には日本画の制作が目立ちますが、和田のこうした生きざまは、明治以降、油彩画との葛藤を続けた日本人画家の一つの帰結であったのかも知れません。

当金庫所蔵の和田三造作品の一部

その1 その2

▉ 青山熊治(1886年~1932年)

 青山熊治

 兵庫県朝来市生野町に生まれました。少年時に画家を志して故郷を出、一時大阪で自活しますが、上京して「白馬会」に席をおき、洋画家高木背水に師事しました。

 明治37年東京美術学校西洋画科専科に入学。上京の前後には白瀧幾之助や和田三造が同郷の先輩として手助けをしています。また、在学中に発表した「老抗夫」が、東京府勧業博覧会で二等賞を受賞し、一躍注目されました。当時の主だった展覧会で受賞後、1914(大正3)年から約9年間にわたりモスクワ、パリとヨーロッパ各地を巡り絵画の世界に没頭しました。

 日本に帰ってからは、帝展など審査員をつとめながら、1926(大正15)年、第7回帝展特選受賞など、多くの傑作を創作し続けていました。1932(昭和7)年、兄を見舞いに帰郷していた折、突然46歳で急逝してしまいました。作風は、ヨーロッパ、特にルノワールやセザンヌから強く影響を受けています。

当金庫所蔵の青山熊治作品の一部

その1 その2

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